もとは一辺55mの方墳で、早くに墳丘の盛土が流出してまい、石室の天井石が水田のなかに露出していた。1933年(昭和8)の第一次調査と1935年(昭和10)の第二次調査により、石舞台古墳造営に際し、周辺部で破壊された古墳が7基見つかった。本体部分も含めると約20基の古墳が破壊されたことになる。おそらく群集墳のあったところを大規模に破壊し、丁寧に改葬して石舞台古墳を築いたと思われる。その点を考慮すると、被葬者は当時のかなりの権力者であるといえる。石室の形態などから、7世紀前半に造営されたものと考えられ、蘇我馬子の桃原墓の可能性がいわれている。