不老不死の果実を求めて 垂仁天皇と忠臣、田道間守

垂仁天皇の前方後円墳に寄り添うようにある小島が「田道間守」の墓です

《連載》
新日本妖怪紀行|第16回

不老不死の果実を求めて
垂仁天皇と忠臣、田道間守

今回は『古事記』や『日本書記』に記されている第十一代垂仁天皇すいにんてんのうと、その忠臣、田道間守たじまもりのお話です。内容は当時の神仙思想の影響を受け、不老不死の果実を求める物語なのですが、現代医学も、究極の目的は不老不死と考えると、今も昔も手段が違うだけで、願望は同じと言えるでしょう。
中世の錬金術や練丹術れんたんじゅつなども、不老不死の妙薬を魔術や霊的なものをからませて手に入れようとしました。不老不死って、なんとも言えないロマンを感じますよね。

天皇の無理難題を引き受けた忠臣

垂仁天皇はある日、家臣の田道間守に「非時香菓ときじくのかくのみを探してまいれ」とお命じになりました。「非時(ときじく)」とは、時がない永遠不滅という意味があり、「香(かく)」は、輝くいつまでも輝き続けている、という意味で、食べると不老不死になる果実です。その実は海の彼方の常世とこよの国にあると言われていました。
その国の果実を取って戻ってくるというのは容易なことではありません。生きて帰ってこられるかもわからないのです。しかし、忠臣として知られる田道間守は、快く引き受け、海の彼方へと旅立ったのでした。
近鉄「尼ヶ辻」駅の近くにある、御陵の場所を示す道しるべ

忠臣、時すでに遅し!

大変な苦労の末、常世の国で非時香菓を手に入れた田道間守は、なんと無事に帰ってきたのです。でも、その間、すでに10年の月日がち、垂仁天皇はもう崩御されていました。「天皇の喜ぶ顔が見たい」と思っていた田道間守の悲しみは例えようもなく、枝のついた実4つと、束ねた実4つを皇后に献上し、残りを垂仁天皇の御陵ごりょうたてまつって、非時香菓の実を持ち帰ったことを報告し、悲しみに泣き叫んで、その場で、そのままの姿で亡くなってしまったのです。

このときの描写について『古事記』では、彼がそのまますっと亡くなったように著し、『日本書記』では自殺したように書かれています。

圧倒的な迫力で迫る垂仁天皇御陵

橘や牛乳を薬として珍重した時代

この気になる非時香菓の実とは、今で言うたちばなのことで、このことも『古事記』に記されています。今ではその実をかじっても不老不死になりませんが、私は橘の実も、当時の人の体質も、今とかなり違っていたのではないか、と思うのです。

今で言う医療大学の教育施設のような典薬寮てんやくりょうが、平安から明治維新までありました。その中には、不老長寿の薬として珍重されたらくもあったのです。今で言うチーズやヨーグルトですね。大阪では東淀川区の北東部、淀川沿岸あたりが典薬寮に属し、朝廷に牛乳や乳製品を献上した部署乳牛牧ちゅうしまきがありました。当時は牛乳も薬として珍重され服用したようで、文治2年(1186)、後鳥羽天皇が病気にかかったとき、乳牛牧の牛乳と薬草の汁を混ぜて献上し、乳牛牧の近くにあった教照寺の僧が祈祷すると、病気はたちまち平癒してことなきを得た、という記録があります。

私たちは毎日チーズやヨーグルトを食し、牛乳をがぶ飲みしても病気の快復を実感することはまず、ありません。しかし、この後鳥羽天皇のような出来事は全国にあったのです。当時の人々は天然の穀物や野菜などを食べ、およそ刺激物らしいものは口にしなかったのではないか、と私は思います。チーズやヨーグルトでも、絶大な効果を体にもたらすほど、今とは体質そのものが違っていたのではないかと……。

橘や牛乳を薬として珍重していたという事実を「非科学的な」と、現代人は笑えません。すでにそれら天然の食材が、薬として効かなくなったという現状こそ、我々がこれから反省し改善すべきことではないか、と思うのです。
大阪市東淀川区大桐(だいどう)にある「乳牛牧跡」の碑
文・写真提供

竹林 賢三

TAKEBAYASHI KENZO

*掲載内容は2016年11月に取材したものです
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