《連載》
新日本妖怪紀行|第19回
二つの池を結ぶ悲恋物語
おいの池の伝説
今回はテレビの『まんが日本昔ばなし』にも収録されている有名なお話ですが、現地には、もはや伝説の舞台となった池は存在しません。それで場所が特定できなかったのですが、地元の人たちが教えてくれて、中には親切にも後から走ってきて情報を提供してくれた女性もいました。
このページの取材は毎回、地元の親切な人の協力で成り立っているとも言えます。今回は吉野郡大淀町佐名伝周辺の方々にご協力いただきました。ありがとうございます。
苦しむ僧を助けて
近鉄吉野線「下市口」駅から西、吉野川沿いに下流へ向かう北側に、佐名伝という地域があります。そこで昔、嘉兵衛と娘の「おいの」という2人が、仲良く暮らしていました。おいのは気立てがやさしく、美しい娘でしたので、遠くからも「嫁に来てほしい」と言われることが多かったのですが、おいのは「まだ早い」と、断り続けていました。
ある日、日も暮れた街道をお使いに出たおいのが帰ってくると、村の入り口の地蔵堂の前で人のうめき声がします。見ると墨染めの衣を着た若い僧が、腹痛で苦しんでいたのです。おいのは人の苦しんでいるのを放っておく娘ではありません。その僧を背負って家に帰り、父と共に懸命に介抱したおかげで、僧の病気は嘘のようにおさまりました。僧は南都興福寺の俊海といい、翌朝、2人に心から礼を述べて、また旅に出ました。
ところが、その日以来、おいのの様子ががらりと変わったのです。明るかった顔が暗くなり、物思いにふけったり池のほとりにぼんやり立って、涙を流すことさえあったのです。その理由は誰にもわかりませんでしたが、父の嘉兵衛だけは、恋を知った女の顔だということがわかりました。しかし、どうすることもできません。
まんじゅう笠が知らせた悲劇
そんなある雪の日、ついにおいのは、まんじゅう笠をかむって興福寺を訪れ、俊海に胸の内を告げました。でも「あなたのお心に添うことはできません。お許しください」と言って、俊海は寺の中へと走り去ったのです。
おいのは雪の降りしきる中、村へと帰りました。その2日後、おいのは村の池に身を投げ、死んでしまいました。それから数日して、興福寺の放生池である猿沢池(奈良市登大路町)に浮かんだ、まんじゅう笠を俊海が見つけます。もしやと思い拾ってみると、中に「おいの」と書いてあるではありませんか。嘉兵衛が俊海に娘が亡くなったことを告げに興福寺を訪れると、実は俊海もおいののことを忘れることができなかったと言います。その日から、俊海の姿は興福寺から消えました。人々は、おいのの後を追って死んでしまったと噂し、佐名伝の池は「おいの池」と、呼ばれるようになりました。
おいの池と猿沢池の不思議な関係
伝説では、おいの池と猿沢池は雨が降っても水量が変わらないことから、地下でつながっていると言われています。ですから、まんじゅう笠が地下を通って、猿沢池に出てきたのですね。鎌倉時代、佐名伝に大きな寺院があって、付近は興福寺の所領となっていますので、そこから猿沢池と結びつけたのかもしれません。また佐名伝では、縄文や弥生時代の土器も見つかり、6世紀頃のカマドのある竪穴住居も見つかっています。
現地に行ってみましたが、すでにおいの池は平成23年の紀ノ川河川改修工事のときに姿を消し、今ではどこにあったかわかりませんでした。せめて場所を示す石碑や案内板がほしいところです。でもタクシーの運転手さんが親切な人で、近くの材木置き場の事務所や道行く人に聞いてくれて、このへんかな、と言いながら写真を撮りました。
おいのと若い僧の悲恋物語は、遠く離れた2つの池を結ぶ、恋のひとすじ。ひょっとしたら俊海は猿沢池から佐名伝の池へ、地下を伝って会いに行ったのかもしれませんね。
*掲載内容は2017年2月に取材したものです