仇討ちを陰で支えた女 曽我兄弟の仇討ち

虎女がわび住まいした「今市地蔵堂」

《連載》
新日本妖怪紀行|第18回

仇討ちを陰で支えた女
曽我兄弟の仇討ち

今回は日本の三大あだ討ちのひとつ、曽我兄弟の仇討ちを陰で支えた虎女とらじょ(大磯の虎)の話です。かつてこの仇討ちは、日本人なら誰でも知っていましたが、最近では知らない人の方が多いと思います。でも、そのゆかりの地は全国あちこちにあり、歌舞伎でも寿曽我対面ことぶきそがのたいめん助六由縁江戸桜すけろくゆかりのえどざくらなどが、兄弟の登場する人気の演目です。
さて、その虎女にまつわるお堂が奈良の葛城市にあるというので、さっそく行ってきました。

曽我兄弟の仇討ちとは、建久4年(1193)に、曽我十郎祐成すけなり五郎時致ときむねの兄弟が、父の仇、工藤祐経すけつねを討ち取った事件です。工藤を倒した後、騒ぎを聞きつけた敵の武士に囲まれ、十郎はその場で討ち死に、五郎は取り押さえられ、次の日に首をはねられてしまいます。

その十郎の妾であった虎女は大磯(神奈川県)の遊女でしたが、教養も度胸もあり、ひそかに進められた仇討ちの話を、十郎から知らされていた唯一の人物でもあります。ちなみに十郎には正妻はいません。仇討ちをするので妻は持たなかったのです。つまり、虎女は妾と言っても正妻以上の存在だったわけですね。

あちこちにある「ゆかりの地」

仇討ちの後、兄弟の遺骨を胸に抱き、虎女は菩提をとむらう旅に出ます。あちこちに曽我兄弟ゆかりの地が生まれたのは、彼女が諸国を巡ったからでしょう。兄弟の墓も一か所ではありません(?)。後に浄瑠璃などでこの話が広く知られるようになって、よけいに名所が増えたのかも。このへんは、各地の町おこし・村おこしに大いに貢献したと言えるでしょう。虎女が化粧をした井戸とか、五郎の足跡が残る石とか、十郎がふんずけたら泉が湧いたとか、伝説特有の「ゆかりの地」はあちこちにあり、大阪の堺では虎女が盗賊に襲われ、それを1匹の黒狐が助けたという話も伝わっています。その狐は十郎が生前、猟師に追われているのを助けた狐で、その恩を感じて影のように付き添い、虎女をまもっていたというのです。

また、兄弟の幽霊が出るという話もあって、仇討ちをした場所で2人の幽霊を見たら高熱が出たとか、死んでしまったとか、そんな怪談話まであります。

お堂の右側に並ぶ「虎石」

虎橋なんて聞いたこともねえな〜

さて、奈良の葛城市南今市には、虎女が十郎の霊をなぐさめるために、わび住まいをしたというお堂があります。そこは今市地蔵というお地蔵さんを祀ってあり「大磯虎女旧跡地」という石碑が立ち「虎石」という石までありました。

お堂の横に案内板もあって、近くに虎女が作った「虎がはし」という橋があると書かれています。そういえば、近くの地図にも「虎橋」というのが書かれてあったので、場所を確認してみましたが、頭の上に「?」が付くような場所でした。

どうやらこれが「虎橋」のようです。
洪水に備えて作り直したということですが……

近所の人に「本当にこれが虎橋ですか」とたずねても「さあ〜、60年も住んどるけど、そんな橋、聞いたことねえな〜」というお答え。でも「そこの地図に書いてましたけど」と言っても、まったく知らない様子。他の人に聞いても「さあ、知んねえなあ」と言います。でも、葛城市が作った案内地図には、ごていねいに「俗に縁切り橋と呼ばれ、婿取り・嫁取りの際には渡らない」とまで書いてあるのです。

きっとみなさん、縁切りなど気にもせず、毎日通っているのでしょう。というか、それが橋と気づく人もいないと思うほど、形が変わったのだと思います。

虎女あってこその物語

虎女が十郎と出会ったのが17歳、仇討ちは19歳のとき。2人の恋は、わずか3年たらずで終わりましたが、その後、虎女は出家し、一生兄弟の供養をして63年の生涯を閉じます。いわゆる「曽我もの」と言われる歌舞伎や講談の演目は、数々の伝説をまとっていますが、仇討ちは事実であり、虎女も実在の人物なのです。

彼女がもしいなかったら、曽我物語もドラマとしての魅力に欠け、これほど親しまれることがなかったかもしれませんね。
「大磯虎女旧跡地」の碑
文・写真提供

竹林 賢三

TAKEBAYASHI KENZO

*掲載内容は2017年1月に取材したものです
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