今も続く政吉さんへの供養の踊り 村を救った英雄物語

政吉さんのお墓。後ろにある板には政吉踊りの由来が書いてある

《連載》
新日本妖怪紀行|第10回

今も続く政吉さんへの供養の踊り
村を救った英雄物語

うちの事務所に奈良の伝説の本が何冊かあって、その中に五條市大塔町阪本に伝わる「政吉まさきち踊り」について書いたものがあります。村人が難儀しているのを救った政吉さんのお話で、ちょっと興味深かったので現地に行ってみました。するとなんと思いもよらない展開になって、これこそ現地取材の醍醐味と感じました。
どんな展開になったか、政吉踊りについてのレポートをお届けします。けど、現地では当たり前のお話なんでしょうね。

昔話として知られる「政吉踊り」とは

昔、大塔の阪本の集落に淡路主水という男がやって来ました。今でいうイケメンで、村の人気者になりました。特に女性たちは主水に夢中です。でも、おもしろくないのは村の男衆で、嫉妬しっとのあまり、主水をなぶり殺しにしたのです。
当然、代官のお調べがありましたが誰も口を割りません。村の男たちをしょっぴいて調べたのですが、詮議せんぎが長引いて村の仕事ができなくなり、畑も荒れてしまいました。
そんなときに中村政吉という、昔、村にいたやくざものが帰ってきました。事情を聞くと「昔は悪いことをして村に迷惑をかけた。ここは、わしが自首しよう」と言って身代わりに処刑され、村の衆は無罪放免で帰ってきたのです。最後に政吉に欲しいものはないかとたずねたら、何もいらんが、命日にわしの好きな踊りを供養と思って踊ってくれと言います。それから毎年、村では「政吉踊り」を踊るようになった、ということです。
大きく美しい猿谷貯水池

本当にあった政吉さんのお墓

さっそく現地に行きました。そこは熊野川(奈良県では十津川とも呼ばれています)の猿谷さるたに貯水池に沿った集落で、山の斜面に家が点在しています。旅館の前にいた男性に、何気なく「政吉踊りって、ご存じですか」と聞くと「もうすぐ供養があるで、政吉さんのお墓はこの上だ」という答え。えー、あの昔話は実話?と驚きつつ教えてもらった道を上がると、本当に政吉さんのお墓があるではありませんか。他の人に聞いても、毎年踊っていると言います。でも、最近は地域の名前で「阪本踊り」と言うそうです。
お墓の後ろに、その由来が書いてありました。大きく違うのは殺された男の名前が主水ではなく、淡路の国から来た文蔵であること。しかもイケメンの人気者ではなく、性質粗暴で態度傲慢ごうまん、風紀を乱す行為はなはだしい男で、阪本と小代こだいの村人がいましめようとして、誤って殺してしまったということです。そして、五条代官の登場となり、村の15歳から60歳までの男たちが捕らえられ、なんと2年もの間、牢に入れられて詮議を受けたのです。この月日の長さでは村もやっていけませんよね。
あとは同じで中村屋政吉が罪を背負って自首し、村人が助かったと書かれてありました。でも、政吉が元やくざものとは書いてありません。しかも、このお墓がある場所は、政吉さんの宅地跡ということです。この由来が書かれたのは昭和4年10月13日で、当時の大塔村の阪本、小代の両区民が作りました。そこに「160年余り前のこと」と書かれていますので、ちょうど明和めいわの初めの頃、1764年ぐらいの出来事と思われます。
ダム湖に架かる吊り橋を渡りました。かなり長くて細いです

なんと無形民俗文化財でした!

とにかく政吉さんの供養を250年もの間、今も続けているということに感動しました。多分、途中で途絶えても、どこからも文句の出ないような年中行事と思いますので、これは特筆ものです。
そしてその夜、事務所に戻ってきて、ネットで検索しましたら、なんと動画サイトで、阪本踊り(政吉踊り)が見られるのです。これもまた驚きでした。もうひとつおまけに、奈良県の無形民俗文化財に指定されているのですから、ひょっとして有名な踊り? 知らぬは私だけなのかしら。奈良の皆様、政吉踊りが「奈良の常識」だとしたら、一人で騒いでごめんなさ〜い。
吊り橋の注意書き。3人以上は危険です。たしかにそんな感じでした
文・写真提供

竹林 賢三

TAKEBAYASHI KENZO

*掲載内容は2016年5月に取材したものです
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