2021.11.22 鮎 【葛城市】屋敷山古墳 ●やしきやまこふん 後円部からの登り口。古墳よりも城跡の主張が強い。 葛城市最大規模の前方後円墳 屋敷山古墳は葛城市内で最大規模の前方後円墳で、全長は135m以上あります。5世紀中頃(推定)の築造で、竪穴式石室の中には長持形石棺(県文)が安置されていました。石室や石棺に用いられている竜山石(兵庫県高砂市産)という凝灰岩は、大王など当時の有力者のみが使用できた石材と考えられ、被葬者は葛城地域を治めた有力者(葛城氏?)ではないかといわれています。 周濠の跡とされる前池(古池) 蓋石。ベンチ代わりに座られていること多々あり… 統治者の居館・官庁としての役割 古墳がある周辺の地域は「布施郷」という郷が形成され、平安時代から室町時代にかけて、興福寺国民の布施氏が統治していました。布施氏は葛城山の尾根上に布施城という山城を築いていましたが、戦闘時以外の居住・執政空間として、古墳の上に里の館を建てました。時代が下り、江戸時代初期には関ヶ原の戦い(1600年)で武功をあげた桑山一晴が和歌山城から移封され、布施藩(2万石)を立藩。新しい陣屋を古墳に造営しました。その際に城下町を「新城村」と名付け、のちに「新庄村」に変更され現在に至ります。また、「屋敷山」という墳名は、墳丘上に桑山氏の屋敷があったことに因んでいます。 大奥あたりから。城下町はもちろん、若草山も遠望できる 麓の看板には利用図がありました! 現在は市民が憩う公園に 昭和47年(1972)に国史跡に指定されたことを受けて、公園として周辺整備が行われました。芝生広場や遊具、噴水、鯉が泳ぐヒョータン池にグラウンドやテニスコートなどもあります。南側には文化会館や図書館、体育館、公民館まであり、市民の憩いの場となっています。現在でも公園内には新庄陣屋時代の名残がいくつか残されているので、探してみては? ヒョータン池は外堀跡を利用しているよ! 鯉のエサも売られています(100円)