〈吉野町〉吉野山で壮絶な最期を遂げた忠臣『村上義光』 2024.12.6 鮎 鎌倉幕府打倒のために尽くした忠臣が眠る 吉野山下千本駐車場の北西、道路脇の階段をのぼった先に大きな宝篋印塔があります。こちらは鎌倉時代末期に大塔宮護良親王(だいとうのみやもりながしんのう)に仕えた村上義光(義日/むらかみよしてる)のお墓と言われています。 登り口は北と南にあり、北側には明治初年に廃寺となった峰の薬師堂跡があります。墓がある辺りも松山茶亭の跡といわれていて、かつては豊臣秀吉もひと息ついていたとかいないとか。 南側 北側 登り口の麓にも墓碑?と思しき石がそれぞれに置かれていました。 村上義光は信濃(長野県)出身の武士で、『太平記』では元弘の変(1331-1333)で笠置山が陥落した際、熊野に落ち延びる護良親王に仕えた9人の供奉の1人として登場します。 ちなみに護良親王は第96代後醍醐天皇の第三皇子。20歳で天台座主となり、還俗した後に鎌倉幕府倒幕で功績をあげ、後醍醐天皇による建武の新政下では征夷大将軍にも任じられました。 護良親王の像(五條市大塔町) 義光の最後は元弘3年(1333)。護良親王軍(3,000人)と二階堂道蘊率いる鎌倉幕府軍(6万人)が吉野城(金峯山寺)で対峙した『吉野城の戦い』でのこと。 大橋は死体で堀が埋まるほどの激戦地となりました。 吉野山の地理に詳しい吉野執行・岩菊丸が幕府方と内通したことで不利となった護良親王は、もはやこれまでと金峯山寺に置かれた本陣で最後の酒宴を開きます。 そこへ後から現れた義光が護良親王を説得し落ち延びることになりましたが、周囲は幕府軍がひしめき容易に脱出できない状況。そこで義光は自らがおとりとなることを決めます。 大塔宮御陣地 護良親王の甲冑を着た義光は二天門へ登り、「天照太神の御子孫、神武天皇より九十五代の帝、後醍醐天皇の第二の皇子一品兵部卿親王尊仁、逆臣の為に滅ぼされ、恨を泉下に報ぜん為に、只今自害する有様見置て、汝等が武運忽に尽て、腹をきらんずる時の手本にせよ」と絶叫し自害。 この時、自分のはらわたを引きちぎって敵に投げつけ、太刀を口にくわえた後、うつ伏せになって絶命したといいます。あまりにも壮絶な最期ですね… 二天門跡 首はのちに北条方の実検で別人と分かり打ち捨てられてしまうのですが、それを哀れんだ里人がとむらって墓としたという話が伝わるのがこの宝篋印塔だというのです。 宝篋印塔の周りは玉垣で囲われ、隣には高取藩士・内藤景文が天明3年(1783)に建てたとされる『村上義光忠烈碑』があります。ミニ甲冑も供えられておりました。吉野山を訪れた際には忠義心に溢れた男の歴史にも触れてみて。 村上義光忠烈碑