〈五條市〉花火大会の元祖「鍵屋」初代は奈良出身!『鍵屋弥兵衛』 2024.5.23 鮎 花火大会の元祖は五條市大塔町出身 現在日本各地で開催されている花火大会の発祥となったのが東京・両国の大花火(現在の隅田川花火大会)。これを支えた鍵屋の初代弥兵衛(やへい)は、奈良県五條市大塔町篠原地区の出身と伝わります。 弥兵衛は、木地師一党の集落として栄えた篠原に三男坊として生まれ、五條新町あたりの火薬工場へ奉公に出ていました。 火薬の技術を習得した弥兵衛は、吉野川の葦の茎に火薬を詰め、手持ちの吹き出し花火を考案。「火の花」「花の火」「花火」と称した花火はたちまち大人気。その花火を商いながら江戸に出て、万治2年(1659)日本橋に『鍵屋』を構えました。 幕府御用達の花火師に 同年弥兵衛はその技術を買われ、幕府御用達の花火師に。花火自体はそれ以前から流行していたようで、戦乱の時代には鉄砲や狼煙に使われていた火薬が、太平の時代を迎えて娯楽に使われるようになったということでしょう。 家康は武器としての火薬にも強い関心を持ち、三河で鉄砲隊を組織、火薬技術の保存育成のため、弥兵衛など一部の花火師を保護していたようです。 「鍵屋~!」「玉屋~!」 享保18年(1733)の両国の川開きでは、前年の大飢饉やコレラによる大勢の死者の慰霊のため、6代目鍵屋弥兵衛によって3か月間毎夜花火が打ち上げられました。※諸説あり 文化5年(1808)、8代目の番頭清七がのれん分けで両国上流に「玉屋」を開き花火大会は過熱。おなじみの「かぎや~!たまや~!」となっていくのです。 ところが、玉屋が失火で大火事を出し、一代で廃絶になります。のれんを守り続けた鍵屋は、現在15代目・天野安喜子さんに継がれて、日本を代表する規模の花火大会などを取り仕切っています。 奈良のスター 鍵屋弥兵衛 ※五條市大塔町篠原…旧吉野郡大塔村篠原参考文献:五條市ホームページ、『日本大百科全書』、『花火』NHK出版