〈大淀町〉聖徳太子建立の「比蘇寺」跡に建つ禅寺『世尊寺』 2024.9.13 鮎 天皇・貴族も詣でた古代寺院「比蘇寺」 奈良県大淀町比曽にある「世尊寺」は江戸時代中頃の寛延4年(1751)に創建された曹洞宗寺院。同寺は、聖徳太子の建立と伝わる「比蘇寺」の旧境内地に建っています。 比蘇寺の創建については未だ多くの謎に包まれていますが、奈良時代(8世紀ごろ)には、東西両塔、金堂、講堂を配置する薬師寺式伽藍を整えていたと考えられています。 『日本書紀』の欽明天皇14年(553)条の一文にある「吉野寺」を指すとされ、同文にて天皇が光を放ちながら海に浮かぶ楠から造らせたという仏像は、世尊寺の本尊・阿弥陀如来坐像として現在まで伝わっています。 世尊寺本堂(講堂跡) 同時代には高僧が住み、平安時代には「現光寺」と呼ばれ、清和天皇や宇多上皇、藤原道長も参詣するなど、吉野地域を代表する仏寺巡礼地の一つとして栄えました。南北朝時代には後醍醐天皇から「栗天奉寺(りってんほうじ)」の寺号も与えられています。 現在、世尊寺境内には比蘇寺の各堂塔の礎石や土壇が残るほか、平成17年(2005)の調査では、鎌倉~南北朝時代にかけての寺院の一部や、西大寺とのかかわりを示す瓦などが見つかっています。昭和2年(1927)には国史跡に指定されています。 中門(金堂跡) 比蘇寺の遺構をよく見られるのが東西両塔跡。東塔は聖徳太子が父・用明天皇のために建立し、その後鎌倉時代に改築されたことが知られています。 高さ約25mの三重塔は、文禄3年(1594)に豊臣秀吉によって伏見城に移された後、慶長6年(1601)に徳川家康によって園城寺(三井寺/滋賀県)に寄進されました。現在も国の重要文化財として同寺に残っています。 東塔跡 西塔は推古天皇が夫・敏達天皇のために建立した三重塔でしたが、こちらは相次ぐ戦乱に災いされ、『今昔物語』には「賊の手によって焼失せり」と記されています。現在は西天中礎を含めて13個の礎石が残っています。 西塔跡 本堂の南西に東面して建つ「太子堂」は、寄棟のお堂(法堂)の後ろに入母屋の張り出し部(角屋)がつく、奈良県内でも珍しい造りの建物。 創建年は分かっていませんが、軒丸瓦には「栗天奉寺」の「栗」の字が残り、鬼瓦や鯱瓦にはそれぞれ享保7年(1722)、寛政8年(1796)の銘があり、同年の修理札も見つかっています。 同寺に残る聖徳太子孝養像は鎌倉~室町時代に制作されたものであることから、太子堂の創建と太子信仰が江戸時代以前からあったことがわかっており、現在も毎年4月に聖徳太子の会式(おたいっさん)が行われています。 太子堂[県指定文化財] 本堂裏には聖徳太子お手植えと伝わる「檀上桜」が植わり、その前には貞享5年(1688)に同寺に参詣し、檀上桜を眺めて詠んだという、松尾芭蕉の句碑が置かれています。