〈東吉野村〉刀と共に生きる-平成を代表する大刀匠/河内 國平さん 2024.1.11 鮎 奈良の山奥で鍛え上げられる日本刀 霧氷が美しい高見山の麓、奈良県東吉野村平野で日本刀を作る河内國平さん。家は代々刀鍛冶を生業とし、14代河内守國助を父にもつ刀匠だ。 日本の刀は「天叢雲剣[草薙剣](あめのむらくものつるぎ[くさなぎのつるぎ])」に代表されるように、武器としてだけではなく、神に捧げる御物としても扱われる特別な武具。ところが明治時代の廃刀令で需要は激減。太平洋戦争後は作刀さえも禁じられた。 苦境に立つ刀鍛冶の現実を目の前に河内さんも刀鍛冶を継がずに就職をするつもりでいた。しかし、1冊の書籍が刀鍛冶の道へと引き込む。 「大学4年の時に『刀匠一代』(宮入昭平著、新人物往来社、1971)という本を読みました。その最後の2行、『(前略)せめて一人でもよい。将来を託せるような刀鍛冶が生まれてくれないかと、そればっかり、切に願ってやみません。』この文章を読んだ時に、(刀鍛冶を)やろうと決めました」 原料の玉鋼。たたら製鉄の技法 でつくられる鉄と炭素の合金 茎(なかご)の銘「吉野山居 八十翁 國平製之」 こうして大学卒業後は、書籍の著者で人間国宝の刀匠・宮入昭平(行平)へ入門した。「親方は日本最後の職人というような方でした。生活態度にとても厳しく、また鉄くぎ一つまたぐだけでも怒るほど、鉄や仕事道具を大事にしていました」。 入門から3年間は休みなし。土日や休日も関係ない。朝、外が明るくなれば起き、暗くなったら寝る。親方や他の弟子と寝食を共にしながら、技術と精神を磨き続けた。そして30歳で独立が許され、父の知り合いから譲り受けた東吉野村の山中の一画に鍛刀場を設けた。 鍛錬を行う鍛刀場/魔除けの意味もこめられた「破邪」の文字が壁に書かれている 現在は美術工芸品としての性格が強い日本刀。愛刀家やコレクターのほかに、嫁入り短刀や貴賓室の装飾などに購入する人もいるという。しかし、追い求めるのは刀としての本来の役割。 「現代では使用することを禁じられていますが、本来は人を切るための道具。美術品や芸術作品として作ればいい刀はできません。よく切れる刀を追求していけばおのずと洗練された美しい刀になっていきます」 素延べの工程/ここで形が決まるため念入りに整えていく 刀作りは過去との闘いでもある。「例えば力士なら、引退した横綱とは勝負することはありませんが、刀は違う。鎌倉時代や室町時代に作られた刀が、刀匠が亡くなった後も名刀として存在しています。私たちは名刀にどれだけ近づけるか、常に挑み続けています」 生仕上げ/ヤスリやカンナなどで表面を削っていく 独立してから50年間、多くの弟子が門を叩いたが、高齢となり昨年に最後の弟子を送り出した。数日で辞める者もいれば独り立ちした者もいる。 「彼らは刀を作りたいというやる気はあるから仕事をさせればある程度はこなします。しかし普段の生活にだらしないところがあるとそれが作品に現れてしまう。だから私は生活態度も厳しく指導していました。今の時代では良しとされないのでしょうが、こうした徒弟制度が日本の工芸を守り継いできたとも思うので複雑な気持ちですね」 自宅に併設したギャラリースペース 一方で後継者については、世襲でもなければ、強制する必要もないと話す。これまでに53人が河内國平の弟子となったが、「國」の字を与えられたのは7人。現在も刀匠を続けているのは5人しかいない。 「時代ごとに環境が変わる中で、古くからの伝統的な技術を守るといっても仕方ないようにも思います。親方はよく『人間が前に出るな、作品を前に出せ』と仰っていました。私たちが『正宗』などの名刀に挑んだように、今度は私たちがひと振りでも多くの名刀を残す。のちにこれに挑む人が現れれば、それが伝統の継承に繋がっていくのだと思っています」と河内さん。 「私は余生が少ないから、少しでも仕事を進めないと」。そう言い残し、仕事場へと姿を消していった。 Profile 河内 國平 KAWACHI KUNIHIRA 1941年生まれ。82歳。関西大学を卒業後、宮入昭平氏に入門し相州伝を習う。1972年に独立し東吉野村に鍛刀場を設立。のち隅谷正峯氏に入門、備前伝を習う。2005年に奈良県無形文化財保持者となり、2014年に日本美術刀剣保存協会「新作名刀展」で正宗賞を受賞。同年、黄綬褒章を受章した。